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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第四章 学徒勤労動員の強化

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一 「通年動員体制」の確立

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 昭和十九年一月八日、「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定されて、前に決定していた「学徒戦時動員体制確立要綱」「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を更に徹底し、「勤労即教育」を本旨として、これを貫徹させるために通年動員が実施されることになった。その実施に際し、当時朝日新聞社が主催して行った座談会「教育の決戦態勢」で文部省総務局長藤野恵は、「かつては勤労といふものを単なる教育の方法といふものに考へてゐた時代があつた、教育上の一つの方法である勤労を課することによつて教育の効果をあげようといふやうな方法的に見てゐたのであつたが、今日ではさういふ時代はすでに過去となり、勤労即教育、勤労の中に教育があるといふ観点に立つて学徒の勤労を増強することは教育それ自身の要請でもあり、また国家生産増強のもつとも大事な点である」(『朝日新聞』昭和十九年二月十六日号)と語り、教育と勤労との関係の価値について思考の転換を要請してやまなかった。

 こうした情勢はやがて、二月十九日の文部次官通牒「緊急学徒勤労動員方策要綱実施ニ関スル件」で、「理、工、農、医等関係ノ学校ニ於テハ力メテ専門学科ノ技能ヲ活用シ動員スルコト」(学徒動員本部総務部『学徒動員必携――閣議決定・法令・諸通牒―集―』第一輯八〇頁)とされて、理工系重視のため、これまで学徒動員の中でも学業優先となっていた自然科学系学生に対しても本格的な動員を行うに至ったのである。そして遂に二月二十五日の閣議決定「決戦非常措置要綱」は、原則として中等学校程度以上の学生・生徒を「総ベテ今後一箇年常時コレヲ勤労ソノ他非常任務ニモ出動セシメ得ル組織的態勢」(『近代日本教育制度史料』第一巻 一七七頁)の下に置いた。そして、この要綱に基づいて出された諸措置により、学徒および教職員は年間を通して常時勤労その他の非常任務に出動することが細かく指示されるとともに、休暇・日曜日等の休業を廃止し、また学科教授に対する制限が加えられた。このように常時勤労動員態勢が執られた中では、学校教育はもはや機能し得ないところまで到達したと言える。

 四月十七日には学徒動員に関する業務を強力に運営するため文部省内に学徒動員本部が設置され、事務を掌ることになった。こうした措置を経て、八月二十三日、「国家総動員法」に基づき「学徒勤労令」(勅令第五百十八号)が公布された。同令は、「学徒勤労ハ教職員及学徒ヲ以テスル隊組織(以下学校報国隊ト称ス)ニ依ルモノトス」(第二条)、「学徒勤労ニ当リテハ勤労即教育タラシムル様力ムルモノトス」(第三条)、「学徒勤労ハ国、地方公共団体又ハ厚生大臣若ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ノ指定スル者ノ行フ命令ヲ以テ定ムル総動員業務ニ付之ヲ為サシムルモノトス」(第四条)と定め、学校報国隊による動員活動を「勤労即教育」として制度化したのである。

 二十年に入り、三月九日、十日の東京江東地区大空襲、十四日の大阪大空襲と、本土への空襲激化の中で、同月十八日、閣議は「決戦教育措置要綱」を決定した。本要綱は、「全学徒ヲ食料増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス」(同書 第七巻 二七三頁)と規定し、この目的達成のため、国民学校初等科を除く学校における授業は、二十年四月一日より二十一年三月三十一日までの一年間、原則として停止という、きわめて異常な措置が採られた。国民学校初等科といえども、都会では学童疎開が行われ、通常の授業は不可能となり、学制頒布以来、未曾有の事態が生れたのである。

 四月一日にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、戦局は瞬く間に本土決戦態勢となった。こうした中で、五月二十二日、右要綱実施のため「戦時教育令」(勅令第三百二十号)が公布された。その第一条で、「尽忠以テ国運ヲ双肩ニ担ヒ戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身シ平素鍛錬セル教育ノ成果ヲ遺憾ナク発揮スル」(同書 同巻 二七四頁)ことを学徒の本分であると規定するとともに、同日、「戦時教育令施行規則」(文部省令第九号)を公布して、「学徒隊」の組織をはじめ、決戦下の具体的活動を指示した。「戦時教育令」公布に際し文部大臣太田耕造は、「我が国学制頒布以来玆に七十有余年、今や戦局の危急に際し教育史上未曾有の転換を敵前に断行せんとす」(『朝日新聞』昭和二十年五月二十二日号)と、文部の最高責任者として、その決断を強調したが、これは学校教育停止の明確な宣言であった。しかしその二ヵ月半余の後、八月十五日、日本は焦土の中で長い戦争を終えたのである。

二 学苑における「勤労即教育」

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 学徒出陣直後の学苑にあって、法文系学部科の場合、残留学生は既に勤労動員先における労働力提供が教室における授業出席に優先するかの如き観を呈していたが、理科系学部科の学生については、専門教育の重要性が一応認識され、勤労動員は休暇中のみに限るとされていたから、甚だしく減少したとはいえ、学苑キャンパスには未だ学生の姿が見られたのであった。しかし、これも永続を許されず、昭和十九年に入ると、理科系学部科の学生もまた法文系学部科の学生と同様、勤労動員の対象に加えられ、キャンパスはいよいよ閑散とならざるを得なかった。

 勤労動員期間が際限なく延長されるに従い、政府は学徒勤労について美辞麗句を連ねた理念的言辞を次々と創り出す必要に迫られた。例えば、十九年一月八日の閣議決定「緊急学徒勤労動員方策要綱」で「勤労即教育」(『近代日本教育制度史料』第七巻 二九頁)という言辞を創案し、同年四月二十七日の文部・厚生・軍需次官通牒「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」で「作業場ヲシテ行学一体ノ道場タラシ」(同書 同巻 五〇頁)めんと、勤労を観念的に教育的側面に昇華させようと躍起になって学徒を鼓舞した。換言すれば、この時期の学徒の勤労は単なる「集団勤労作業」から端的に「学徒勤労動員」と呼称されるに至り、学徒出陣とともに高等教育の正常な運営を不可能にした。

 以上の如く、学徒勤労作業方針が急激に強化されていく状況下で、いかなる方策を学苑は採ったであろうか。新聞研究会会長の第一高等学院教授工藤直太郎は十九年二月五日付『早稲田大学新聞』の社説「勤労と学業の関係を整調せよ」で、「勤労と学問は不可分のものであり、且つ皇国精神の本諦であり、同時に、皇国興廃の危急に処して戦力増強の手段であることを思へば、勤労奉仕を従来の如く、目的、手段ともに徹底を欠くままに放置することを許さない。玆に於て文教当局に一大強力なる学徒勤労局を設置して、軍需、運輸、農商の各省と連繫を計り、学徒勤労の綜合運営を行ふべきである」と、学徒勤労の総元締たる文部省体育局学徒動員課を廃止して一層強大な「学徒勤労局」を設置すべしと提言した。現実に、それから約二ヵ月後の四月十七日、従来の学徒動員課は学徒動員本部に改称且つ格上げされた。更に、工藤は続けて、「各種学校にも勤労課を設け、学の内外に亘る連絡を円滑にすべきである」と、学内の組織をも変更するよう提言した。学苑当局も約二ヵ月後の四月一日、「文教決戦態勢」確立のため職制の全面的改正の一環として勤労動員業務を学生課から学徒錬成部に移管し、その中に動員課を新設した。十九年当時の学徒錬成部は、勤労動員の恒常化に伴い実質的な機能遂行が困難となり、専門学校学徒増産挺身隊(一〇四頁、一二七―一二八頁参照)の訓練、冬季鍛錬等をはじめとする臨時的な教育しか成し得ないと言ってよい状態に近かったから、当局、とりわけ学徒錬成部首脳部は、他大学が国家の要請に副って体育会、音楽会を報国隊に吸収したにも拘らず、それらを学徒錬成部に吸収して、何とか命脈を保とうとした路線を守るため、この改正を機会に報国隊、勤労動員関係の事務を受け継ぐことにしたのであろう。

 また、このように政府の学徒勤労動員方針に率先しようと論じたのは、一教授にとどまらなかった。田中総長死去に伴って総長に就任した中野登美雄は、十九年十月十日の就任式での「就任の辞」の中で、一七頁に既述の如く、「坐学」を否定し、「勤労に挺身」する「学行一如の教育精神」を肯定し、「新なる文教体制の確立を期して使命の達成に政府と協力邁進」する姿勢を明らかにした。国家が教育に対する勤労の比率をエスカレートさせるにつれて、勤労行為に教育的価値を付与させるため、理念的な美辞を顕著にせざるを得なかったのである。

 通年動員体制下における学苑の勤労動員状況を知るには、学徒錬成部動員課が作成した左の出動表が最もよい手掛かりとなろう。

第十三表 学徒勤労動員出動表(昭和十九年七月三十一日現在)

法文系

理工系

 この一覧表で最も多くの学生が出動し、当時日本で有数の軍需工場であった日本鋼管での勤労動員の場合は、種々の面で、動員の実態とその問題点、そして実際に勤労する学生達の意気込みと苦悩等を窺うに十分なものがあるので、以下にその実情を明らかにしてみよう。

 徴兵検査で丙種合格だった岩淵鉄太郎(昭二一文)が追懐「会津先生と洋傘」で、「大学生のわたしたちは特別待遇であった。雇用者側では半病人のわたしたちに適した事務方面の仕事を振りあててくれた。現場の勤怠係というのがわたしの仕事であった」(『早稲田学報』昭和四十二年七月発行 第七七三号 六頁)と記しているように、事務の仕事もあるにはあったが、大半は次に示す如く肉体作業であった。

我等前線に応へん/鋲打ちに挙がる造船早稲田 造船の画竜点睛はリベツトである。真赤な鋲、轟然たるエヤーハンマーの音、かくて完成せる鉸鋲は名刀が名工の人格を反映する如く打つ人の心を腕をその儘に表はすものである。学園専門部経営科二年生○○名は八月一日より○○造船所に動員せられ、同所に於て艦船建設に従事してゐる。九月十五日より五日間第一回、十月十日より十五日間第二回の鋲打大会にリベツト班の各組が参加した。此の二回に亘り塚田正春君外四名は技倆卓抜打数も他を圧して優勝し学園の名を造船所に高からしめたのである。特に第二回に於て塚田正春君は一日に一千十本の鋲数を挙げて造船所の記録を作り、為に工員・学徒の奮起を促し、遂に従来造船の隘路とされてゐた鉸鋲をして軌道に乗せたのである。

(『早稲田学園彙報』昭和十九年十二月二十五日号)

昭和十九年後半の専門部は全員日本鋼管に出動していたので、○○造船所とは日本鋼管鶴見造船所である。この文章によって、学生が勤労報国に全身全霊を捧げたことが十二分に分る。

 それならば、かくも多数の学徒が出動したが、実際の効率はいかがであったろうか。当時東京の大学では本学苑と明治大学とが女子学生の入学を許可していたが、学徒動員の法令上の措置が決定した十九年八月二十三日の「学徒勤労令」(勅令第五百十八号)と「女子挺身勤労令」(勅令第五百十九号)とにより、女子学生の勤労動員が明確化された。その効率はこれら女子学生の眼にどう映じたであろうか。彼女達は勤労動員出勤に際して、各人が諾否について苦悩したすえ、約半数以下の十名弱が九月から日本鋼管へ出動した。その中の一人池内(旧姓小野寺)百合子(昭二一文)は、回想「わが心のふるさと早稲田――日本鋼管での思い出――」で、空襲が激しくなった頃なので、

母が縫い直してくれた紺の矢羽根の銘仙のモンペの上下に身を固め、私は、池袋の自宅から、山手線、京浜線、臨港線と乗り継いで通勤しました。戦場も等しい爆撃の目標となり得る職場に向って、その頃の誰れの念頭にもあったように、私は、ひそかに、通勤途上に爆死する時あるものと覚悟していました。それ故に、うわべは、黒の防空頭巾の内側には、鮮やかな朱の布地を用い、履物は、橙色の緒の、軽い桐下駄を履いて出ました。事ある時には、何らかのあかしになる為と、それが、わずかにしろ、年頃の娘らしいなまめかしさを身につける事で、不可抗力であるべき時勢への抵抗であったのかも知れません。

(早稲田大学校友女子同好会編『早稲田女子学生の記録 1939~1948』 六八頁)

と、若き知性ある女性としての誇りと嗜みを忘れず、空襲の恐怖にかられながら日々生命を賭して通勤したことを記している。しかし、こうした気魄で工場に行っても、作業と言えば、関(旧姓宇佐見)とも(昭二一文)が「日本鋼管勤労動員の頃」で回顧している如く、「養成工」の作成した所内のモーターのカードに「三相誘導電動機」と書き込むだけであったので、「そういうカードつくりが敵を目の前にしたこの時期に、勝つためにどんな必要があったか」(同書三一頁)と、疑問を呈するような仕事でしかなかったものも少からずあったようである。しかも、寄宿舎に泊り込んだ男子学生中にも、「私ども同様大した仕事もなく、また張り切っても働かず、何となくぼんやり過している人もい」た(同書同頁)と見られている。これは、受入先の目本鋼管の言う「十九年度に入ると鋼材の不足と労働力、ことに熟練工の不足」(『日本鋼管株式会社四十年史』二七二頁)によって生じたものであろう。なお、女子学生をめぐって、具体的に言えば「女とおしゃべりなどしていやがるワセダのやつら」に「頭にきていた」(『早稲田女子学生の記録 1939~1948』三二頁)他校の学生が、二人の本学苑男子学生を集団リンチするという事件が生じ、これが主原因となり女子学生は日本鋼管から引き揚げ、学苑の事務作業に従事するようになった。

 以上のような作業状況の下で、男子学生は寄宿舎で寝食を共にしつつ勤労に従事していたが、そのうち、ほぼ同世代の者が戦場で命を賭して戦っているにも拘らず、銃後で勤労作業に携わっているという一種の罪の意識に陥る者もいた。そうした悶々とした気持を、ある学生は女子学生に充てた書信で、「勤労動員によつて見えざる圧迫から幾分逃れたと思つて居ましたが、再びこのままではと体内に血が踊り始めました。結局兵隊になるといふのがこの煮え切らざるココロをやはらげて呉れる唯一のミチと思ひます」(同書 同頁)と切々と打ち明けている。

 このように、学生は種々な悩みを抱きながらも勤労に就かねばならなかったが、はぎわらとくし(萩原得司、昭二五文)が回想「汗を祖国へ/動員の日記から」に、「一九四四年夏といえば、『失われた青春』とか、『灰色の青春』とかいう以上の、悲しみと憎しみの複雑なニユアンスをもつ季節であつた。その怒りは、翌四五年に爆発して第二学院生の日本鋼管ストライキになつたと伝えきいている。また、第一学院生も終戦時にストライキに入つたということである」(創立七十周年記念アルバム刊行委員会『早稲田大学アルバム』七七頁)と記しているように、中にはストライキを起こすほどの気概のある学生もいたようである。

 翻って、受入先である日本鋼管は、学徒の勤労をどのように見ていたであろうか。戦後七年を経た二十七年発行の『日本鋼管株式会社四十年史』は、

当時軍動員と産業動員の調整という問題が大きな課題とされ、その結果人員の不足あるいは補充難に基因する生産の阻害を防止するため徴用制度が実施されることとなって、表面的には一応人員の補充が充足されることとなった。しかし事実上は徴用による人員は製鉄業、造船業のような重筋高熱作業に適するものでなく、徴用された本人の苦労はもとより、これら徴用工の配置が大きな問題となった。さらに物資の不足と配給統制の強化、宿舎の確保等にかんする諸措置も重要な問題であった。加えて動員された人員構成も、一般徴用工、学徒動員、挺身隊、その他作業員があり、これらが一般従業員に混然と伍していたので、労働管理上ならびに諸制度の適用上種々の問題が生じ、生産作業達成上も種々の支障が生じた。 (五二〇頁)

と記している。これで見る限り、軍需工場の中核と言うべき日本鋼管においてさえ、勤労動員学徒の効率は、人員の充足に比して、必ずしも高くなかったことが察せられる。

 次に勤労作業の主要目的の一つである農作業について言えば、学徒、とりわけ文科系学徒は、工場の場合と同様、現地に泊り込んで鋤や鎌を振った。当時、彼らは援農隊と呼称され、遠く北海道まで出かけているが、ここでは、埼玉県岩瀬村(現羽生市)で開鑿した「早稲田堀」について記しておこう。第三巻一〇四七頁に既述したように、政府はこの時期、食糧増産政策を強力に推進していたが、十八年秋にその一環として全国の土地改良事業を展開することに決定した。それに応じて文部省は十八年十一月十八日「土地改良完遂学徒勤労動員ニ関スル件」を発し、「現下ノ農業労力事情ニ鑑ミ本計画遂行ノ成否ハ青少年学徒ノ勤労動員ニ俟ツ所極メテ大ナルモノ」と看做して、「一般学徒ニ付テハ概ネ三十日」間の動員を実施することにした(『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』九五―九七頁)。このような状況の下で、岩瀬村も十一月に耕地整理組合を設立し、先ず耕地の中央を貫く排水路の開鑿を決めたが、他所と同じく人手不足でその実施が危ぶまれた。そこへ、本学苑からの援農隊派遣が伝えられたのである。その前後の様子と学苑生の労働状況を、当時組合評議員であった荒木栄は、左の如く述べている。

太平洋戦争の最中で男子の多くは戦線につき女子は農業に励み、物資は極端に不足し鋤一丁地下足袋一足を手に入れることは容易ではなく、必需品である「モッコ」を買うのにさえ、羽生・行田・熊谷・鴻巣を廻っても十個しか購入できなかった。その時早稲田大学から勤労奉仕隊百名が十日間奉仕する吉報がはいった。受入体制として宿舎に岩松寺が充てられ、食事の献立や給食は国防婦人会の援助を受けることになったが、食器が不足し川口市の問屋街でやっと入手したような状態であった。一番困ったのは工具類で、監督指導に当っていた見沼代用水事務所からエンビ十五丁・トロ五台(レール付)を借用したり、羽生実業学校へ窮状を説明してエンビ五十丁を借用し、なお不足分は組合員が各自持ち寄った。奉仕隊員は前日の七日に来村し宿舎にはいったが、その晩は大雪に見舞われ三十センチ以上も積もった。翌三月八日雪はやみ晴れわたったが、これではどうにもならず「困った困った」の連発であった。学生団はこの大雪を片付けながら中央排水路の開鑿に着手した。十日間で岩瀬小学校の前から羽生・鴻巣県道を横断し、東武鉄道をくぐって岩瀬落に合流する約千五百メートルの工事を完成した。この排水路は現在早稲田堀と称されている。 (『羽生市史』下巻 六九三頁)

この時出動した学徒の所属部科等は不明である。これ以降、他所からも援農隊が加わり、更に戦後になっても続行され、二十八年八月、一応の耕地整理完成を記念して同村役場敷地内に、総長島田孝一の筆により「耕地整理完成記念碑」が建立された。

 そもそも学徒勤労作業の対象は、軍需生産関係、農林・水産・畜産関係、防空・土木・建築関係、医療関係に大別できる。このうち前二者については既述したが、医療方面は本学苑と殆ど関係がなかったので略すこととし、あまり触れなかった防空・土木・建築関係について次に述べておこう。先ず防空に関しては、十八年九月十七日「学校防空指針」で学校防空体制全般が指示され、特に「学校ノ自衛防空ハ其ノ時期ノ如何ヲ問ハズ教職員、学生生徒及傭員ヲ以テ之ヲ担任スル」ことが「本則」とされ、これを以て「学校特設防護団」の編成を義務づけられるとともに、「其ノ他ノ者ハ学校報国隊防空補助員」とされた(『近代日本教育制度史料』第七巻 二〇四―二〇八頁)。しかし、本学苑では、十二年四月五日の「防空法」(法律第四十七号)に基づき同年九月に、各地の防護団の活躍もあって、「早稲田大学特設防護団」を編成していた。ただし、団員は職員および傭員を以て組織され、学生は演習の際団員の指揮を受けることになっていた(『早稲田大学新聞』昭和十二年九月十五日号)。

 さて、先の「学校防空指針」に基づき、本学苑は十八年九月三十日「学校報国隊防空活動ニ関スル一部改訂ノ件」で、「本大学特設防護団(自衛防空)及報国隊防空補助隊(校外防空)」とに一応分け、「警戒警報発令時」の「学生在校授業中(昼)ノ場合」に、「学校報国隊防空補助員ハ所定ノ配備ニツ」き、「学校特設防護団員(報国隊員ニシテ指定セラレタルモノ)ハ所定ノ配備ニツク」こと等を定め、同日キャンパス内で約二百名が初訓練を行っている。それから約二十日後の十月十八日付の「報国隊防空協力配備新編成ニ関スル件」で、「本大学特設防護団へ学生ノ編入並徴兵猶予ノ特典停止ニ依ル学生数異動ノ為メ報国隊防空協力配備体制ノ編成替ヲ行」った。以上の叙述は、厳密に言えば学校防空であったが、この時校外防空も割り当てられた。その「校外防空補助割当表」で専門部、高等師範部、第一・第二高等学院は、警察署、消防署単位で「受持区域」が割り当てられた。例えば専門部政治経済科は、淀橋警察署内の淀橋第一、淀橋仰光、淀橋第四の各国民学校に「応援」出動となっている。学苑当局は翌十九年二月二十二日付を以て、「学校防空(自衛防空、校外防空)ニ関スル計画並ニ指揮ハ爾今特設防護団之ヲ管掌シ、本部ヲ学徒錬成部内ニ置」き、「報国隊々員タル全学生ハ総テ防空要員ニ充当」し、団長に田中総長を任ずるというように、全面的に改組した。その詳細は本編第五章第二節に譲る。

 昭和二十年一月十六日、文部省は「警視庁管下消防署派遣防空補助員ノ勤務ニ関スル件」により、「従来(学校報国隊防空補助員中)消防署補助員トシテ出動セルモノノ勤務ヲ強化」し、それを「特別消防員」として、その「勤務ハ三日毎ニ二十四時間勤務トシ配属サレタル消防署ニ宿泊スル」ものとした(『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』一七二―一七三頁)。これに呼応して本学苑は、三月五日、理工学部一年生全員と専門部工科一年生を「学徒消防隊」に結成、直ちに各消防署に配置したが、僅か五日後の三月十日未明の東京大空襲により、七名の学徒消防隊員が火焰の犠牲となった。この詳細は一六四―一六五頁に譲る。

 もう一方の土木・建築関係に関しては、十九年四月二日、文部省は「防空土木施設緊急整備ニ対スル学徒報国隊ノ動員ニ関スル件」で、緊迫した空襲必至の情勢に鑑み、学校報国隊が「協力スル工事ハ原則トシテ緊急整備スベキ防空土木施設中公共防空壕及消防道路ニ関スル作業トスル」ことを定めた(学徒動員本部総務部『学徒動員必携――閣議決定・法令・諸通牒集――』第一輯 一七五―一七七頁)が、その約三ヵ月後の六月二十七日、学徒動員本部より学校長へ発せられた「東京都疎開事業協力ノ為大学、高等専門学校学徒動員割当ニ関スル件」(文部省監修『学徒動員の要領――関係法規・諸通牒並解説――』二四〇頁)などに依拠して、本学苑は十九年七月三日、「本大学防空要員不在校時ニ於ケル予備防空要員出動ニ関スル件」で、

本大学防空要員タル専門部、高等師範部各科及ビ第一、第二両学院第一学年学生全員目下群馬県下ニ勤労出動中ナルモ、更ニ右期間終了後引続キ東京都疎開工事ニ動員下令ノ内報アリタルニ就テハ、第一学年学生不在校期間並ビニ空襲必至ノ現下ノ状勢ニアリテハ来ル九月末日迄貴管下予備防空要員タル学生ニ対シ警報発令(訓練警報発令ノ場合ヲ含ム)ト共ニ全員登校有之様何分ノ御手配賜リ度ク此段得貴意候也。

と、専門部、高等師範部、第一・第二高等学院に「疎開工事」動員の態勢整備を指示した。このうち第一高等学院は現実に建物強制疎開に出動しているが、当時学院講師であった河野宥は、「第一学院生と共に『東京都防衛局浅草向島方面』という隊へ動員され、家屋疎開のために間引きなどに従事した。向島などの下町には、簡単にできていると思われる棟割長屋が沢山あり、一人ないし二人の指導者の下で、学生が綱をつけて引っ張ると容易に倒れた。その周りに大ぜいの住民が眺めていて、物めずらしいのかなと思っていたら、学生の作業が終って解散になったとたんに、囲りをかこんでいた住民が、ワッと集まってきて、バラバラになった材木を我先に持って行った」(「座談会 学徒勤労動員」『早稲田大学史記要』昭和五十六年三月発行 第一四巻 一八六頁)と、その作業内容を伝えている。

 これまで触れる機会がなかった朝鮮・台湾の学生や満州国留日学生等の勤労について、現在判明した範囲内で記しておく。和田穣(昭二二文)の記憶によれば、十七年、報国隊第十二部隊(第二高等学院)の一年生が国鉄貨物駅汐留に荷役作業に出動した時、宗山健二郎(朝鮮出身)、鄭東〓(台湾出身)ら朝鮮、台湾の学生も一緒に出動したのであり、朝鮮・台湾の学生も当然のことながら内地の学生とともに勤労作業に従事したと察せられる。文部省は、通年動員体制に入ってから、十九年四月二十四日の「学徒動員ニ際シ外国人留日学徒ノ取扱ニ関スル件」で、約二ヵ月前に「常時」勤労を打ち出した「決戦非常措置要綱」にも拘らず、「一般学徒不在ノ期間ハ補習授業、実験実習、特別講義又ハ特別修練其ノ他補導団体等ニ於テ開催スル講習会等ノ出席等教授修練継続ノ方途ヲ講」ずるように通牒して(『学徒動員の要領――関係法規・諸通牒並解説――』七八―七九頁)、「外国人留日学生」には勤労動員を課さないことにした。尤も、六月二日、「満州国留日」の「工鉱関係学校」生に対しては、「満州国留日学生ノ勤労動員ニ関スル件」で、文部省は「卒業後満州国ノ指示スル業務ニ就職スル実情ニ鑑ミ分散配置ニ依リ動員スル学科ニ在学スル者ニ付テハ本件ニ依リ動員スルコト」にしている(『近代日本教育制度史料』第七巻 七二頁)。なお、いよいよ戦争が末期症状を呈した二十年五月十一日、文部省は「早稲田大学附属高等学院」宛に、「外地在住者ニシテ内地高等専門学校ニ入学シタル学徒ノ勤労動員ニ関スル件」を以て、新たに入学する「朝鮮在住ノ学徒」を「北海道援農作業ニ勤労動員」させるため、教職員を下関駅まで派遣し、「動員学徒ヲ迎ヘテ之ヲ引率スル」よう命じている。

 さて、勤労動員の場合、労働に対する報償は如何であったろうか。十九年四月二十七日の通牒「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」によれば、「学徒勤労ニ対スル報償ハ学徒各人ニ対スル労務ノ報酬ニ非ズシテ挺身奉公ノ協同業績ニ対スルモノナルヲ以テ一括学校報国隊長ニ之ヲ交付セシムルコト」(同書 同巻 五〇―五一頁)と規定されて、その報償額は翌月三日の「工場事業場等学徒勤労動員受入側措置要綱ニ関スル件」で、「基本報償算定基準」として男子大学生一人当り月額七十円、専門・高等・高等師範学校生は六十円、女子の専門学校生は五十円と定められた。また一ヵ月に満たない場合は、一ヵ月を三十日として日割計算された(同書 同巻 五七―六三頁)。それにも拘らず、十九年六月から七月にかけて、早稲田大学報国隊の第六―第九部隊の専門部、第十部隊の高等師範部、第十一・第十二部隊の第一・第二高等学院の生徒が群馬県各地へ援農隊として出動した時の書類によれば、左の如く、報償は基準額に達していない。その理由は明らかでないが、あるいは食費が差し引かれたのではなかろうか。

昭和十九年八月九日 学徒錬成部長 杉山謙治

経理部長殿

群馬県出動学生報償割当ノ件

別記ノ通リ各部隊ニ割当致シ候間、動員課ヲ通ジ会計課宛御請求ノ上、寔ニ御手数ナガラ適当ナル機会ニ隊員ニ御支給相成度此段及御報告候也。

備考 別記ノ通リ隊員一日当リ金四十三銭強ト相成候ヘバ、其ノ端数即チ金三銭強ハ報国隊出動前後ノ諸雑費ニ充当致度御了承被成下度宣敷御願申上候。

群馬県出動各部隊隊員報償明細書

一、群馬県ヨリノ受入金総額

一、金一万四千円也

二、各部隊隊員報償金総額

一、金一万二千七百六十八円八十銭也(別記)

別記 各部隊出動日数・人員ノ報償明細)

すなわち、彼らの基準額は規定から言えば日割で二円となるが、この場合は四十三銭で、実際に受け取った額は四十銭であった。この報償金受納に際して、先の小野寺が述べているように、日本鋼管から「それに見合った勤労手当を手にした時には、あっけにとられる思いがしました。これは貰って帰るべきかどうか、しばらく迷いました。出来得るならば、国家の為めに受け取りたくない」(『早稲田女子学生の記録 1939~1948』六八頁)と、受納すべきかどうか真剣に悩んだ学生もいたようである。それはそれとして、学苑当局は十九年十月二十六日の理事会で、左の如き「学徒報償取扱要綱(暫定)」を決議し、十一月一日より実施した。

一、学徒の場合

(イ) 授業料並ニ教育関係費ハ報償収納ノ如何ニ関係ナク学則ニ従ヒ従来通リ各本人ヨリ納付セシムルコト

(ロ) 報国隊費ヲ左記ニヨリ納付セシメ別途会計トシテ之ヲ取扱フコト 年額金十二円也

但シ報償金ヨリ差引クコト

(ハ) 報償金中ヨリ左ノ交附金ヲ各本人ニ交附スルコト

イ、宿舎ニアリテ出動中ノ者 金十五円也

ロ、通勤ニシテ且ツ食費ヲ受入側ニ支払フ者 金二十五円也

ハ、前二項以外ノ者(通勤弁当持) 金三十円也

(ニ) 個人名儀ノ貯金 報償金中ヨリ、報国隊費(ロ)、交附金(ハ)ヲ差引キタル残額

(備考) 貯金取扱細目

一、預入事務ハ貯蓄銀行ニ委託 二、保管事務ハ銀行部隊 三、引出事務ハ部隊長ノ証明添付ノコト

(ホ) 理工系学徒等分散配置ニ出動ノ者ニ対スル報償ノ取扱ハ別ニ之ヲ定ム

ここで決議された「授業料並ニ教育関係費」に関して、当時第一高等学院書記であった佐久間和三郎は、「横須賀海軍工廠の寮に行き、そこで宿泊している学生に大学への納入金を徴収した。学生は自分達が働いた手当の中から、一言の文句もなしに払ってくれました。今考えるに、授業をやってないのにどうして大学が授業料を取ったか不思議です」(『早稲田大学史記要』第一四巻 一八六頁)と追懐している。

 勤労動員は、学生を病気にし、あるいは事故や空襲により死傷させることもあった。現に日本鋼管で一一六頁に紹介した塚田正春は、「不可避の重傷、足脛部アキレスケン断裂傷」(『早稲田学園彙報』昭和十九年十二月二十五日号)により入院している。そうした場合、入院費用等の捻出法の一端を知り得る記載が、前掲(一二四―一二五頁)の群馬県への援農部隊の書類中に発見される。

受入金ト隊員支給金トノ差額(隊出動諸雑費充当額)

一、金一千二百三十一円二十銭也

現在迄ノ諸雑費内訳

一、金四百十円也 教職員報償不足分補充(前報告デハ大学負担金)

一、金一百円也 第七部隊天満隆之輔入院(敗血症)見舞金

一、金一百円也 同部隊千葉精一入院(赤痢)見舞金

計六百十円也

右残金ハ大学会計課ニ保管中ニシテ今後隊員ノ傷病害等ノ報告ヲ俟ツテソノ見舞金其ノ他ニ充当致度予定ニ有之候。

すなわち、重病人には「見舞金」という名目で、受入先の群馬県から大学へ渡された報償金のうちから支払われていたのである。

 更に、不幸にも死亡する学生も全国的にはかなりの数に上り、文部省の調査ではその数は一万九千六百六十一名であった。本学苑における犠牲者の数は残念ながら不明であるが、犠牲者が出た場合には、学苑は各所属部隊長主催で「学徒慰霊祭」を執行した。昭和十九年十月二十五日発行の『早稲田学園彙報』には、出動箇所は不明であるが、八月十七日に七七教室で高等師範部国語漢文科一年金田正の、九月三十日に小講堂で第一高等学院理科二年久野八郎の学徒慰霊祭が厳かに施行されたことが報じられている。本学苑における最も悲惨な犠牲は、二十年八月七日の豊川海軍工廠への空襲による十五名の爆死であるが、この悲劇については一三六頁以降に後述する。

 戦局が厳しさを加えるにつれて勤労環境が劣悪化し、それに伴い勤労学徒も生命の危険に曝されるようになった。そのためか、政府は十九年十二月十九日死傷学徒に対し、国家的援護を図るため「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定した。これは、実施に当り「動員学徒援護会(仮称)」を設置し、「勤労動員若ハ防空防衛出動ニ因ル死亡又ハ重傷病ニ対シ死亡弔慰金又ハ傷病見舞金ノ支給ヲ行フ」規定である。その予算は国庫補助金の他、会員の納入する会費(工場事業場受入金、農業団体受入金)等が充てられた。このうち工場事業場受入金とは、工場出動学徒五十名につき「派遣教職員」一名の割合で月二円積算した金額を工場より徴収するものである(財団法人学徒援護会編『財団法人学徒援護会二十五年史』五―一一頁)。右の豊川海軍工廠殉難学徒にはこの規定に基づき弔慰金が支給されている。

 これまで、報国隊を除いて夜間部学生の動向について触れ得なかったのは、明確な規定がなかったからである。しかし、既述(一〇八頁)の十九年八月二十三日の「学徒勤労令」で学徒勤労動員の法令上の措置が決定したことにより、従来除外されてきた学徒もその方向で動員されることになり、十一月八日の「夜間学校学徒動員ニ伴フ措置要綱ニ関スル件」で、夜間学生も動員されることが明文化された。しかし本学苑では、これ以前の十八年十二月に早稲田専門学校生の一部を「組織化シ以テ刻下緊急ヲ要スル軍需産業ニ集団勤労ヲ提供セシメ、之ニ代ヘテ夜間勉学ノ時間ト学費トヲ得セシムルヲ得バ、生産シツツ学ブコトニヨリ、十分国家ノ要請ニモ答へ、同時ニ、ソノ宿望ヲモ達成セシメ」んとして、「学徒増産挺身隊」の結成を企図した。この実施には主として安部民雄学生係主任が当り、安部は海軍と交渉して、海軍の配慮で石川島造船所に、「学生タルノ身分其儘ヲ以テ工員ニ採用就業セシメ」ることを受諾させた。そこで、挺身隊希望者は翌十九年一月十八日より二十三日まで学徒錬成部久留米道場で錬成の訓練を受け、修了とともに第一部隊は石川島造船所寄宿舎豊洲寮に入舎し、翌二十四日午前十時大隈講堂で結成式を挙行した。彼らは午前七時から午後三時半まで労働に従事した後、早稲田行都電で集団登校し、六時より授業を受けた。

 早稲田専門学校の学徒増産挺身隊の発足は、学徒錬成部ほど大規模なものではないが、「智識を持つた者が団体で職工になつたといふことは今までに恐らく類例のないことであらうと思ふし、誠に貴重な資料が得られるのではあるまいかと思ふ」(『早稲田大学新聞』昭和十九年二月二十日号)との安部の発言から、国家の方針に一歩先んじた夜間学生の勤労作業企画への自負心が読み取れないであろうか。翻って考えれば、昭和十八年末頃、学徒勤労動員の恒常化の中で、本学苑の特徴発揮の可能性があったのは、全般的かつ形式的に規定する報国隊以外に明確な規定を受けなかった夜間授業の学校のみと言えないこともない。なお、二月六日段階で、同校長上坂酉蔵は挺身隊希望者だけを収容する「一週五日、一日二講座四時限」の「第二産業経営科」を新設したい旨発表しているのを付記しておく。

 監督ないし派遣責任教職員についてはこれまで断片的に触れてきたが、ここでまとめて述べておく。そもそも派遣責任教職員は、学徒勤労作業規程の嚆矢である十三年六月九日の「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」で、「教職員ハ挙ツテ之ニ参加シ生徒ト一体ニナリテ其ノ実績ヲ挙グルニ努ムルコト」(『近代日本教育制度史料』第七巻一九頁)と要請されていた。更に、十八年六月二十五日の「学徒戦時動員体制確立要綱」に伴う七月六日付「学徒戦時動員体制確立要綱実施ニ関スル件」(文部次官通牒)で、「一、学校動員ハ飽ク迄教育錬成内容ノ一環トシテ実施スルモノナレバ単ナル労力提供ニ終ルガ如キコトナキ様特ニ指導スルコト」を推し進めるため、「二、学校教職員ニ対シテハ前項ノ趣旨ヲ十分徹底セシメ率先垂範学徒ト一体トナリテ本動員ノ精神ヲ発揚セシムルコト」(同書 同巻 二六―二七頁)と、文部省は教職員に対し勤労作業に教育的側面を付与させる役割を課した。また、経費等に関しては、十九年五月三日の「工場事業場等学徒勤労動員受入側措置要綱ニ関スル件」で、「派遣責任教職員ニ対シテハ交通費、旅費其ノ他ノ必要ナル経費ハ別途指示ニ従ヒ受入側ニ於テ負担シ別途支弁スルコト」(同書 同巻 五七―六二頁)と定めた。

 さて、このような国家的規程に対し、本学苑の教職員はどのように行動したであろうか。派遣責任教員の最初の仕事は、当時商学部助教授の入交好脩の回想によれば、

我々「監督」教師の責任のある日は早目に行って正門〔池貝鉄工所〕で待ち受けていた。そして、非常の場合に備えて、名簿を向こうの工場側に渡して、何人工場へお預けしたということで、その後は早稲田大学から池貝鉄工所に責任が移る体制になっていた。万一爆撃されたりして犠牲者が出た場合、人数も名前も分らぬというようなことのないよう明確にし、その時病気で休んでいる者は来てないわけですので、そうした点検をきちんとして、向こうの責任者と立ち会いました。

(『早稲田大学史記要』第一四巻 一八四―一八五頁)

すなわち、先ず、名簿を提出して員数の確認と責任の所在を明確にすることであった。また、派遣教員は学生の配置等につき可能な範囲内で工場側に注文をつけた。例えば、当時専門部法律科講師だった中村吉三郎が、

そこ〔日本鋼管〕ではクレーンを使ったりして、非常に危険な作業もかなりあった。そういう所へは、我々は可能なかぎり抵抗して学生を入れないよう多少の努力はしたつもりです。また、造船の工程は種々あるが、どこの工程へ学生を入れるかということで、できるだけ軽い所へ入れてやろうというのが、我々の最大の仕事でしたが、なかなかそれは受け入れてもらえなかった。それでも、特別体の丈夫でない者はできるだけ軽い作業に回してくれるよう交渉した。また、体の具合が悪く早退する場合、「責任」教師の判がないと門を通れないよう非常に管理が厳しい状態なので、私は判を押して午前中で帰ってよいようにした。 (同誌 同巻 一八四頁)

と追想している如く、教員は学生を危険な部署から遠ざけるよう配慮したのであった。

 このようにして学生を送り込んだ後も、連絡が円滑を欠く場合、教員が間に入って、何くれとなく世話をした。例えば、十九年九月上旬に横須賀海軍工廠造兵部深沢工場に出動していた当時助教授の荻野三七彦は、卒業式を控えて何とか送別会を開けないものかと、学苑に残っている前述の宇佐見とも宛の葉書に、

残暑と闘ひつつ表記〔神奈川県鎌倉郡深沢村青蓮寺〕の処に宿泊して勤労学徒の指揮監督をやつてゐます。来る二十四日は卒業式ですが、一つ研究室で簡単に送別会でもやつたらと思ひます。何か妙案はありませんか。どうも学生間に縦にも横にも連絡がないのは遺憾と常々痛感してゐます。形はどうあらうと精神的に温味のあるものに致し度いものです。九日夜帰京しますからその上で御相談に応じます。次は新入生の歓迎会もやりませう。家族的な会合を望みます。一つ女子学生が率先して御尽力下さい。

と認めて、「精神的に温味のある」送別会が開かれるよう相談を持ち掛けている。

 また、「勤労即教育」「行学一体ノ道場」且つ中野総長の「学行一如ノ教育」等のスローガンを実践するため、派遣教員は工場の寄宿舎等で時間を割いて講義を行った。当時の専門部法律科長中村宗雄は、

はじめのうちは一週間のうち何日かが勤労動員、残りは講義時間という具合でしたが、しまいには常時動員。専門部法律科の学生全部が日本鋼管に徴集になって、むこうの寄宿舎に入れられた。もう講義どころではない。初めの間は、とにかく月に一度大学に呼び集める召集日というのがあって、そのときに多少の講義をした。しかしそれも廃止となって、しようがないから科で工面した金で作った文庫のうちから教科書や参考書を動員先の寄宿舎に移した。せめて夜読んでくれという……

(『早稲田学報』昭和四十二年七月発行 第七七二号 一五頁)

と、講義方法の目まぐるしい変化を語り、且つ戦局が末期症状を呈するにつれて、漸次工場での教育が実施不可能となりながらも、師弟ともに何とか学問的雰囲気を保とうとする姿勢を保持したことを語っている。

 一方、学苑当局は、前に示した十九年十月二十六日の理事会決議「学徒報償取扱要綱(暫定)」において派遣責任教職員の交通費、補償等を規定し、十一月一日より実施することにした。

二、教職員の場合

(イ) 日帰リノ場合

乗車賃 三等往復実費 日当 金三円也

(ロ) 宿泊ノ場合

乗車賃 実費(汽車、二等) 日当 金三円也 宿泊手当 金二円也

(ハ) 派遣責任教職員ハ努メテ受入側宿舎ニ於テ学生ト起居ヲ共ニスルヲ原則トスルモ、其ノ設備ナキ場合ニハ宿泊ヲ証明スベキ文書ヲ添付ノ上、申請シタル場合ニ限リ一泊金十五円ノ宿泊料交付ノコト

(ニ) 受入側ヨリ支給セラルル教職員ノ報償ハ原則トシテ個人渡トセズ総テ動員課ヲ通ジ大学会計課ニ之ヲ収納スルコト、但シ右収納金額ガ、交附金額ヨリ著シク多額ナル場合ハ別ニ其ノ都度適宜ニ取扱フコトアルベキコト

 また、学苑当局は教職員の万一を考慮して、一六六頁に後述する如く、二十年二月八日の理事会で「勤労動員関係教職員ニ対スル戦時生命保険ノコト」を「研究スルコト」とし、次いで五月十日の理事会で、「学徒勤労先へ屢々派遣セラルル教職員ニ対シ戦争死亡傷害保険金五千円ヲ附スルコト」を決定した。

 なお、教員が動員先を巡ることによって、彼らの多くは研究を中断せざるを得なかった。ここに、動員と研究のディレンマについて、先の荻野三七彦の回想を記しておく。

国内の戦時態勢が進んで、学園では研究はおろか、教育も次第に戦争に巻き込まれて行った。私は当時はまだ三〇歳代の若い助教授であったが、この若い助教授層は大学当局から最も重宝がられて勤労動員の監督として方々の工場へ派遣されて、休む余暇はなかった。……こうした戦中・戦後を通じて私の生涯で大切な時代を研究から離れていたことは誠に大きな損失であった。私の重要な研究上の仕事はこうして多く麻痺してしまっていたのである。

(『早稲田学報』昭和四十一年一月発行 第七五八号 二一―二二頁)

 さて、勤労動員を所轄していた学徒錬成部は、約三年半で二十年五月一日を以て閉鎖されたので、動員課の所轄事項は学生課に移管された。それから約二十日後の五月二十二日、学徒勤労動員を画一的に統括してきた各大学の報国隊が廃止されることになった。これは先記した如く、政府が中・高等教育を完全に中断させた「決戦非常措置要綱」を実施するための五月二十二日公布「戦時教育令」(勅令第三百二十号)で、国家が「食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身セシムルト共ニ戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為学校毎ニ教職員及学徒ヲ以テ学徒隊ヲ組織」(『近代日本教育制度史料』第七巻 二七四頁)することを義務づけるとともに、同日付の「戦時教育令 補則」(文部省令第九号)で、「学徒報国団ハ之ヲ存置スルモ学校報国隊ノ組織ハ之ヲ廃止スルコト」とし、「学徒隊ノ結成ハ遅クモ六月下旬迄ニ完了スル」と命令したことによる。その学徒隊とは、「戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身セシムルト共ニ戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ組織」である。そこで、学苑当局は六月二十一日の理事会で、「早稲田大学学徒隊」の結成式を来る二十九日に挙行することと、学徒隊基地を第一久留米道場、第二秩父方面、第三軽井沢本大学所有地に定めることを決定している。このような状況において、内務省は八月十三日付で関東信越地方副総監から地方長官、大学高等専門学校長宛に「関東信越地方学徒隊組織ニ関スル件」を発し、「関東信越地方学徒隊編制表」を配付している。

 こうして、とにもかくにも、師弟ともに、

友達らの喧騒と別れ、ぼくとO君U君はS先生を囲んで門を出る。ここ(被服廠)から赤羽駅までの細い勾配のある道はたのしい。十分か十五分ではあるが、疲れきつた精神をやわらげてくれる。夕陽が鱗雲に映えている。――ぼく達はなんともいえぬねつつぽさでS先生にたずねる。「勤労動員の大切なこともわかるんですが、なにか納得できないものがあるんです」「とても、たまらなくなるときがあるんです」「ぼく達はどうしたらよいんでしようか」――S先生はうつむき、うなずいている。その顔に暗いかげがはしる。戦闘帽のしたのぶあつい眼鏡がひかる。「そお……」――S先生の言葉がとぎれる。声にならない言葉に、美しい魂がうずいている。語らないもの、語られないものに、ほんとうの真実がある。

(『早稲田大学アルバム』 七七頁)

と、逃避できない苦悩を抱きつつ、「戦争終結の詔書」の放送を聞くまで研究や学業を拋って労働に精力を傾けた。そして敗戦まで、理工学部生村野賢哉(のちNHK解説委員)が回想「科学の啓蒙をめざして」で述べている如く、

そうした時の敗戦の詔勅は、熱血たぎる青年の心に、強い決意をうながしたのであろうか。わたしは二人の横浜工専の学生をつれて、直ちに皇居前にゆき、玉砂利の上にひざまずいて、ひとしきり涙を流し、さらにその足で明治神宮にいたり、挺身隊員全員にわたるだけのお守り札をうけ、工場にとってかえして、彼女たち全員を整列させ、声涙ともにくだる別れのことばを述べ、一人一人にお守り札を渡しながら、鬼蓄米英兵に陵辱されないうちに、直ちに故郷に帰り、再起をはかるべきことを説いたのであった。 (『早稲田学報』第七七三号 二頁)

と、動員学徒、すなわち銃後の臣民としての義務を遂行した。

 このような行動に対して、責任者である文部大臣太田耕造は、

戦線では勿論、工場でも農村でも諸君は実によくやってくれた。私の胸は感謝で一杯である。われらの今後の生活は苦難に満ち、学業もまたいばらの道を拓いていくのである。諸君の重任は昨日までの敢闘をもって終ったのではない。今日からは更に日本の科学力と精神力とを全的に最高の水準に押し上げる責務が課せられている。私は諸君の素晴らしい再出発を期待している。 (『財団法人学徒援護会二十五年史』 一二頁)

と、掌をかえしたように「再出発」という新たな義務を学生に課した。この談話と相前後して、八月十六日に勤労動員は解除され、十七日に引揚げ通牒が出され、学徒は荒れ果てた学園に戻ってきた。正式には、十月五日の「戦時教育令」廃止、十二日の「学徒勤労令」廃止を以て、学徒勤労動員はすべて終焉を告げたのである。

 以上、本学苑の学徒勤労作業の軌跡を説述してきたが、とりわけ、第三巻で触れた如く、学苑当局が全国に例を見ない学徒錬成部に勤労作業の一端を担わせ、学徒錬成部との関連で全国統一的な報国隊の創設を遅らせつつ、独自の制度にしようとしたり、夜間学生に対する勤労の規定に先立って早稲田専門学校学徒増産挺身隊を組織するなど、他大学に比して際立っている側面があることは否めないであろう。このことは、本学苑が国家の学徒勤労作業強化の方針に対し、それぞれの時期に一貫して先取性ないし独自性を発揮しようとしたことを示すものではなかろうか。本学苑のこの意図は、前述した荻野三七彦が、回想「戦時下の早稲田大学」で、

当時の早稲田大学では戦争の激化にともなって、その時々の情勢に適応した対応策が採用された。当時の大学総長は田中穂積氏であったが、田中氏の苦労は並一通りのものではなかった。大学の姿は一変して学内での授業は日に日に細る一方となり、勤労動員を主軸とした方向へと進んで行った。学徒動員によって学生数は激減し、その上にまた大学は教育と研究の機能を喪失したが、戦時態勢に順応した型態によって大学自体の消滅することだけは免れた。元来、学の独立を旗印しに創立され、自由を標榜して来た早稲田大学が保身の術を工夫してなお存続し得たことは、田中総長の努力の結果である。

(『早稲田女子学生の記録 1939~1948』 七頁)

と指摘しているところである。

三 豊川海軍工廠の被爆

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 既述の如く、中野総長は就任に際して、「学行一如の教育精神に基き皇国勤労体制の確立に寄与する」決意を表明したが、それより十ヵ月後、学苑は、勤労学徒十五名の死、二十数名の負傷という大きな犠牲を払うことを余儀なくされ、学苑百年の史上、最も痛恨に堪えない大惨事が惹起したのであった。

 豊川海軍工廠は昭和十四年十一月、愛知県宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村の三町村にまたがる約二百ヘクタールの地に建設が決定され、戦争の拡大に伴って急激に膨張し、五万名を超える従業員を擁して、海軍使用の機銃および弾薬の約七〇パーセントを生産する東洋一の大海軍工廠となっていたが、昭和二十年にあっては、大学・中学校・女学校・国民学校高等科の学生・生徒六千名が動員学徒としてその労働力に付加されていた(近藤恒次『学徒動員と豊川海軍工廠』参照)。ここに学苑学徒が動員されたのは十九年九月二十六日で、同年四月入学の専門部政治経済科生が早稲田大学報国隊第六部隊として派遣されたのであった。その中の一人栗原福雄の記すところによれば、

動員学徒は早大、慶応、日大、京大、立命館大及び豊橋中学、豊橋商業、豊橋高女、国府高女、長野飯田高女で、いずれも十四・五歳から二十才位迄の年令であった。早大生は機銃部第一機銃、第三機銃工場、火工部第一薬莢、第二薬莢工場、光学、鍛造、検査、運輸部に配属された。……当初は一日三交替、戦局急迫後遂に一日二交替十二時間、かくなっては昼夜の区別はつかない緊張と疲労は極度に激しく、早大報国隊入院第一号は岡本(現姓服部)昌三君、秋から冬にかけ栄養不良と疲労が重なり、発熱、病院を訪れるものが多くなったが気力で頑張った。 (『史眼なきは滅ぶ』 一四二―一四三頁)

 さて、昭和二十年に入ると、戦局の推移は我が国にとり悲観的な材料を累積するのみであったが、豊川地方に対しても、七月には警戒警報の発令は殆ど連日の如く、空襲警報の発令も、九日、二十四日、二十八日、三十一日と間隔を狭め、三十一日には終日解除されることがなかった。更に八月二日にも空襲警報が発令されたが、七日には、「本土空襲で、軍事目標をねらった最終的なもので……中小都市の一夜の犠牲としては最大のものであった」(原田良次『日本大空襲――本土制空基地隊員の日記――』下巻 一八八頁)大爆撃が豊川海軍工廠に対して行われたのである。

 そもそも、ここに動員が決定した後、監督のため大学により派遣された後年の総長時子山常三郎は、当時専門部政治経済科教務主任であったが、種々のトラブルの生ずる管理体制から察してアメリカ軍の空襲に対し不安を感じたので、工廠に学生の安全を保障するための対策を樹立するよう強く要望したと、回顧録『早稲田生活半世紀』に述べている。ところがこの要望は容れられなかった。すなわち、同書によると、「空襲警報で情報がわかるはずだから、退避訓練と状況に応じて万全の事前待避措置を採るよう」との時子山の強硬な申入れに対し、総務部長(海軍少将)までは納得していたのに、廠長(海軍中将清水文雄)のみが「待避は退却だ」と頑強に反対したため、「軍の監督下に動員されている以上、廠長の命令に従ってもらうほかない」という総務部長以下の意見に従い、時子山は、「廠長の指揮だと重大責任問題が起るから、あなた方も補佐の責を果すため、わたくしの要求が実現できるよう、廠長に極力働きかけて貰いたい」(一三四頁)と繰り返し依頼して引き下がるほかなかったとのことである。

 八月七日の大空襲については、豊橋市立工業学校の「附添教官」であった近藤恒次が、

この日午前九時をやや過ぎた頃、例のごとく空襲警報は発令されたが、次いで出さるべき「女子ならびに低学年学徒退避」の命令なく、ようやく「総員退避」の発令があった時は、すでに敵B29は頭上にあり、すさまじい爆弾の落下音を聞いた。もはや廠外退避どころではない。とにかく生徒等を叱咤して、手近かの防空壕に駆け込むのが精一杯であった。絶え間なくひびく敵B29の轟音、つぎつぎに投下される爆弾の不気味な落下音、続いて地軸をゆるがす爆弾の炸裂、さながら絶えず襲ってくる大地震の中に在る思いで、生徒らとともに壕内に身を縮めていた。 (『学徒動員と豊川海軍工廠』 五七―五八頁)

と記録しているが、この間にあって、学苑よりの勤労学生の悲劇は、再度栗原の筆を借りれば左の如くであった。

澄み渡る青空に白雲浮かぶ快晴の夏、昭和二十年八月七日の朝、皇国必勝を信じ、兵器増産に愛知県豊川海軍工廠に学徒動員された早大学生は、出動途上寸刻後に迫った運命を誰が予知したであろうか。

快晴の空を仰ぎ、灼熱の暑さと油煙、轟音の工場に思いを馳せ工廠の門を入った。作業開始まもなく、ザーッと驟雨のような音、工場を圧する大音響。私はふと工場中央の大電気時計をみると、時まさに午前十時三十分、警戒警報、空襲警報もないのにこの音は? アッ爆弾、気付くも遅し、逃場はなし、近くにいた豊川中学の生徒を抱え、学友に伏せろと怒号、床に伏す一瞬ドカーンという大爆音。米空軍B29を主とする戦爆連合百五十機編隊大空襲の序幕であった。一時間余にわたる豊川海軍工廠へ波状攻撃、一瞬にして軍人、軍属、工員、学徒、女子挺身隊二、四七七名の若い生命は散り、重軽傷者含め七千有余の生命が倒れ、傷つき、屍山血河言語に絶する悲惨な修羅場となった。

工廠中心の薬莢工場に爆弾落下、この爆撃で私の身体はさながら如雨露から出る水のように全身血が吹き出し朱に染まった。工場外の防空壕に退避したが爆撃で土砂崩れ、このままでは生埋めとなる、全く生きた心地がしない。爆撃挺団の合間を縫い壕内の仲間を誘導し、工場脱出、ここまでは冷静であった。海軍共済病院牛久保分院に辿りついたときは、意識不明となった。後で聞くと血と埃と汗・土砂で凝血した着衣を鋏で寸断、全裸にしてアルコールで拭きつつ、じくじくと湧きでる血をめあてに弾片を一つ一つピンセット、メスでえぐりとって摘出したという。満足な薬もなく、マーキュロとリバーガーゼを傷口につめ、全身包帯、眼は爆風と土砂で失明、出血多量、生命危篤、棺桶が用意された。生死を彷徨し、夕空に映える茜色の雲、金色の光り、夢遊涅槃の境地とはこういう状態であろうかと今も想起する。

この空襲で浅井勝也、片瀬和夫、古西照雄、庄司一成、塩原照衛、瀬尾潔、田中国司、田中広、田原昭、中島幸一、広瀬光夫、山本和雄君十二名が犠牲となり、丹羽利邦君重傷、私は九死に一生を得て生還した。「全身爆創」未だ無数の弾片体内にあって災いする私の戦後は骨になるまで終らない。 (『史眼なきは滅ぶ』 一四〇―一四一頁)

 豊川海軍工廠空襲による学苑学生の犠牲者は、右の専門部政治経済科二年生十二名の他、石丸昌之(昭一九専工、理一年生)、熊谷健太郎(理二年生)、大塚富三郎(文二年生)の三名を加えて合計十五名に達し、その他に負傷者二十数名を数えている。学苑の殉難学徒に対しては敗戦直後に寮の一室で合同慰霊祭が行われたが、遺体が運ばれた箇所の隣の寮に宿泊していた学生の多くは、臭気が鼻にっき、食事が喉を通らなかった日が何日もあったと言われている。十五名の遺体は火葬されず、豊川市千両町諏訪林の墓地に埋葬され、九月十一日大隈講堂で合同慰霊祭が執り行われた。更に、四年後の二十四年八月に島田孝一総長の筆になる「早稲田大学戦歿学生之碑」という石碑が当地に建立された。なお、厚生省により遺骨が発掘され、正式に埋葬されたのは、二十六年であった。